主の祈り

イエス・キリストが「このように祈れ」と教えてくださった祈りです.

天にまします我らの父よ,
願わくは,み名をあがめさせたまえ.
み国を来たらせたまえ.
みこころの天に成るごとく
地にも成させたまえ.
我らの日用の糧を,きょうも与えたまえ.
我らに罪をおかす者を我らが赦すごとく,
我らの罪をも赦したまえ.
我らを試みに遭わせず,
悪より救いいだしたまえ.
国と力と栄えとは,
限りなく汝のものなればなり.

アーメン


教会員向けに発行されている「用賀だより」にシリーズで掲載されている,関本信一伝道師による「主の祈り」の解説をまとめました.

主の祈り①

「天にまします我らの父よ,願わくは,み名を崇めさせたまえ.み国を来たらせたまえ.・・・」
 イエス様はマタイによる福音書の山上の説教の中で「あなた方は願う前から,あなた方に必要なものをご存知なのだ.だから,こう祈りなさい.」と,この「主の祈り」をもってどのように神様に祈ったら良いのかを私達に教えてくださいました.またルカによる福音書においても,主イエスの祈りが終わられた時,弟子の一人がイエスに,「主よ,ヨハネが弟子たちに教えたように,私達にも祈りを教えてください」とのお願いに応えて,「祈るときにはこう言いなさい」と主の祈りを祈るよう勧めておられます.
 このように現在,主の祈りは主日礼拝をはじめ教会の集いに行くとあらゆる機会で,皆で暗唱されています.小さい子ども達も教会学校で,またキリスト教学校でも主の祈りを唱えます.神様が私達に最も必要なものとして,私達に与えてくださった第一のものが,この「主の祈り」であったと言えるでしょう.
 私達は毎日の生活の中で,すべてが順調で,幸せな気持ちで,一日の終わりに神様に感謝の祈りの言葉がすらすらとあふれるように出てくる日もありますが,逆に失望や悲しみの中で,祈る言葉さえ見つからない時もあります.このような時にこそ私達は心から「主の祈り」を祈ります.ここには私達が必要とする神様への感謝,願いなど霊的なエッセンスが全て詰まっているからです.

主の祈り②

 私達は主の祈りを「天にまします我らの父よ」から祈り始めます.この言葉は単なる祈りの決まり文句ではありません.これはとても大きく偉大な感謝の言葉です.
 すべてを創られ治められる全能の神様に,我らの父よ!すなわち私のお父さんと呼びかけているのです.主の祈りの始めの呼びかけが,私のお父さん!これは本当に素晴らしいことです.感謝の言葉以外の何物でもありません.
 西洋の王様に対してでも,日本の御殿様に対しても大臣以外の家来が「ねえ,王様」と話しかけることなど許されないことであったでしょう.ましてや私達は神様から与えられた十戒を中心とする律法を守って,神様の前に常に,正しく生きることなど出来ない,いわゆる罪人なのです.
 その罪人の私達を天の父なる神様に,とりなしくださる方がいらっしゃるのです.その方こそ私達の為に罪を贖うために十字架につけられ,墓に葬られ,三日の後によみがえられた,救い主なる御子,主イエス・キリストです.この方のとりなしによって私達はいつでも,どこでも父なる神様に,「天にまします我らの父よ」と呼びかけ,祈り始めることができるのです.神様は私達が祈り求めることは全てご存じです.

主の祈り③

 今日の主の祈りの箇所は「願わくはみ名を崇めさせたまえ」です.ここから主の祈りの本文ともいうべきところに入って行きます.
 この最初の部分,「み名を崇めさせたまえ」という祈りですが,この「み名」というのは言うまでもなく,神そのものと言えます.神の事を「名」と呼ぶ,神の名を呼ぶということは神そのものを呼ぶことです.み名が崇められるようにと言う事は,神ご自身が「崇められますように」と言う事です.
 この「み名が崇められますように」(マタイによる福音書六章九節)は,英語の制御(NIV)では hallowed be your name となっています.この hallowed は「神聖化された,神聖な,尊敬された,尊い」という意味ですから,hallowed be your name を日本語に直訳すると,「あなたの名が聖なるものとされますように」となります.これは,わたくしたちがどのような者であっても,どうぞ神ご自身の名が,ご自身の名にふさわしい聖さを保ってください,ということです・「あなたの名が聖められますように」の中には「私どもによって」と言う言葉は入っていないのです.
 神の子,主イエスが父なる神の名をいつも聖くあるように願い祈ることは当然のことであるかもしれませんが,私達のような罪まみれの人間がこのように祈ることは本当は大変厳しいことであります.それでも私達の救い主,主イエス・キリストは私達にそのように祈るように教えてくださいました.それゆえ,それに従い,罪人の私達も主イエスにならい「願わくはみ名を崇めさせたまえ」と祈ることが出来るのです.

主の祈り⑤

 今日の主の祈りの箇所は「御心の天に成るごとく地にも成させたまえ」です.この「なさせたまえ」の部分を時々,「地にもならせたまえ」と唱える人がおります.意味として間違ってはおりませんが,やはり正しく祈りたいと思います.
 主の祈りの出典であるマタイによる福音書六章十節を,新共同訳で読むと,「御心が行われますように,天におけるように地の上にも」となっております.ギリシャ語を直訳すると神のご意志が「出来事となるように」,神の欲しておられることが,その通りに「起こりますように」と言う祈りなのです.神のみこころの内にあるものが,そこに留まらないで,外に出て,この地においても実現するように.神が御心としておられることをきちんと実行してくださるようにとの祈りなのです.主イエスも有名なゲッセマネの祈りの中でこのように祈られます.ルカによる福音書二二章四二節「父よ,御心なら,この杯をわたしから取りのけてください.しかし,わたしの願いではなく,御心のままに行ってください」.
 私達は祈りの中で,いろいろな願い事を祈ります.しかし最後には神様の御心のままに,とお祈りすることにより幸いと平安を与えられます.天の父なる神様は私達のためには何が一番大切な事なのか,良いことなのかをご存じなのですから.

主の祈り⑥

 今回から主の祈りの後半部分,神に向かう祈りから,人間としての生活に関わる祈りに入ります.まず「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」です.
 この「日用の糧」という言葉は文語訳聖書の翻訳と同じですが,口語訳では「日ごとの食物」と訳されております.また新共同訳では「わたしたちに必要な糧を今日与えて下さい」と訳されています.どちらにしてもこれは御馳走のことではありません.これは私達が毎日食べている食物のことです.これらは自分達の今日一日の命を,生活を支えるものです.マタイによる福音書の後半に,私どもの心をとらえて話さない思い悩みについて,主イエスはこう教えられました.「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと思い悩むな.」「あなたがたの天の父は,これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである.なによりもまず神の国と神の義を求めなさい.そうすれば,これらのものはみな加えて与えられる.だから,明日の事まで思い悩むな.明日のことは明日自らが思い悩む.その日の苦労は,その日だけで十分である.」
 主イエスは明日の事まで思い悩まず,今日一日の労苦を誠実に担って生きられるようにと祈るよう教えておられます.主が教えられた通り,まず神の国と神の義を求めましょう.そして,それに加えて恵みとして与えられる「日ごとの糧」.それによって養われる私達の一日ごとの命に対して感謝をもって「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈りを捧げましょう.

主の祈り⑧

 「我らをこころみにあわせず,悪より救い出したまえ.」
 主の祈りはこの後に神の栄光をほめたたえる言葉で締めくくられていますが,主の祈りの本文は今日の部分で終わりとなります.この祈りはマタイによる福音書6章13節では「わたしたちを誘惑に遭わせず,悪い者から救ってください.」となっています.私達は肉体的にも精神的にも霊的にも弱さをもっています.主イエスは,この「神よ,どうぞ誘惑に遭わせないでください.試練に遭わせないでください.助けて下さい!」との祈りを,この主の祈りの最後にもってこられました.悲鳴のような「助けてください」と呼ぶような祈り,そういう叫びが祈りになるのだと言う事,それが主が教えて下さっている大切なメッセージであると思います.私達は神のふところに逃げ込むことが出来る.そのように助けて頂かなければならない弱さを持っています.信仰を持つということは,自分の弱さをはっきり認めるという事です.だから神に守って頂かなければならないのです.
 「悪より救い出したまえ」「悪い者から救ってください」
 悪いことをしている人間は強い人間のように思われますが,実は人間のように思われますが,実は「悪しき者の力」に完全に負けてしまった弱い者です.これは他人の話ではなく,私達のことです.私達はしばしば,あってはならぬ悪の力のとりこになってしまっています.しかし主イエスはご自身の強さを持って私達の戦いに介入してこられ,私達の味方となり,悪に対する戦いを勝利への導いてくださるのです.

主の祈り⑨

 「国と力と栄とは限りなくなんじのものなればなり.アーメン」
 今回で「主の祈り」のシリーズは最終回となります.主の祈りはこの神の栄光をほめたたえる言葉で締めくくられています.これは祈りというよりも,賛美,頌栄と呼ぶべきものです.これは主の祈りの締めくくりとして.とてもふさわしい,素晴らしい言葉であります.今日,これは後の教会のひとが,主が教えられた祈りに付け加えたものだと考えられています.しかし,決して余計なものではなく,神の栄光をほめたたえる.それですべてが終わる.そうせずにおれない.これは私達もよく知っている信仰者の心です.
 自分達の信仰の歴史を振り返ってみても,今自分が生かされていることを考えてみても,私達の祈りは「感謝・賛美・願い・とりなし等々」と共に,祈りは,「国と力と栄とは限りなくなんじのものなればなり.アーメン」との頌栄をもって締めくくられるべきものと思います.