十戒

教会員向けに発行されている「用賀だより」にシリーズで掲載されている,関本信一先生による「十戒」の解説をまとめました.

十戒① 第一の戒め

あなたには,わたしのほかに,ほかの神々があってはならない.
チャールストン・ヘストン主演のハリウッド映画で「十戒」をご覧になった方も多いのはないでしょうか?モーセがシナイ山から,この十戒を刻み付けた二枚の石の板を両手に,下ってくる場面を思い出します.そこに書かれている事こそが,これから私達が読んでいこうとする十戒です.私達は毎週礼拝において祈られる「主の祈り」や聖餐式において信仰の告白として唱える「使徒信条」に比べ,「十戒」が皆で唱えられる場面はほとんどありません.「主の祈り」や「使徒信条」はみな暗記しており,暗証することも出来ますが,「十戒」はそうはいきません.「主の祈り」や「使徒信条」とは異なり,「十戒」は自分達の生活の中になじんでいないのが現実です.
理由の一つには私達の理解が不十分ということもあるでしょう.また「戒め」と言われると,それは自由を束縛するものとの印象を受けます.しかし,イスラエルの民をエジプトの奴隷の状態(束縛)から救い出したのは神様です.その神様が主イエス・キリストを私どものところにお送りくださり,私達を罪の奴隷の状態から開放してくださったのです.そのことによって神様と私達との間に確かな絆が出来ました.「あなたには,わたしをおいてほかに神があってはならない」と言われるのは,あなたはこの絆に生きるよりほかないという宣言です.そのことによって,私達はこの方以外に私の神はおられないと宣言することになるのです.

十戒② 第二の戒め

あなたはいかなる像も造ってはならない.
なぜ人は神の像を造るのでしょうか.神を偶像にしてしまうと,それを好きなように自分の置きたいところに置き,拝みたいように拝むことが出来ます.偶像とはまさに自分の都合の良い,自分の役に立つ神です.そのような神に対して自分は全く自由にこれを処理し,利用することが出来るのです.しかし私達には金や木石で造られた神様を拝むことではなく,宗教改革の精神においても「聖書のみ」と聖書の御言葉により示される御子,主イエス・キリストを通しての父なる神への信仰が求められています.
しかしこれは他人事ではなく,自分はきちんと正しい聖書の神を信じていると思っていても,時として,実は神様と言いながら,神様を自分の都合の良い偶像に仕立て上げているということはいくらでもあります.そこにおいては偶像として最も恐るべきものは自分自身ではないでしょうか.自分の都合の良いものを神として奉るという事は,自分を偶像として奉っていることにほかなりません.
まことの神を神とするということは,その偶像たる自分を捨てて主イエス・キリストにより頼み,まことの神の前にひれ伏すということではないでしょうか.

十戒⑧ 第八の戒め

盗んではならない.
「盗む」という言葉を聴きますと私達はさしあたり,他人のものを盗む事,泥棒することだと単純に理解します.しかし旧約聖書では,他人の財産,所有物を盗ると言う事だけを意味していたのではありません.まず言われているのは人を「盗むな」ということです.つまり誘拐です.昔は奴隷制度がありました.盗み,それは人を盗むことであれ,財産を盗むことであれ,神様の所有を犯すことです.他人の財産を盗む言う事もまた,神様から盗んでいるとみられるのです.奴隷制度は,これも自分の欲のために人の自由を奪う行為です.また,西欧列強は東南アジア,アフリカ,中近東,中南米を競って植民地とし,自国の利益のために搾取しました.
しかし十戒が教える「盗むなかれ」とは単に昔の人々への戒めではなく,現代に生きる私達にまさに向けられ,戒められていることなのです.私達も不当なやり方で人の物を盗んだりだまし取ったり,自分のやりたいことのために人の自由を奪ったりしていないでしょうか.隣人は自分のためにこれをするのは当たり前だとばかりに人を利用する.その時,その人を物と同じようにしか見ていないと言う事はないでしょうか.
神様が創られた人間達は神様から与えられたもの感謝しつつ生きて行くようにと十戒の中で「盗んではならない」と言われます.